眠りを整える中で
5月は比較的穏やかに過ごすことができていたのだが、最近再び息子の睡眠のリズムが乱れている。昨晩は深夜1時頃に寝て、朝4時に起き、9時に再び寝た。こうしたことが続いているせいで、あまり療育にも参加できていない。
実のところ、こうしたことは初めてではない。息子が生まれた時から度々経験してきた。ひどい時は週に3回くらいは深夜に目を覚ましていた。さらに夜驚症も発症して、眠りながら夢の中で泣き叫び、声かけも届かないということもあった。小児科に相談し、睡眠のための薬を処方してもらってからは、かなり改善していた。だから、私は息子が眠ってから深夜にかけてゲームする時間をとっていた。
しかし、息子の睡眠障害が戻ってきたために、ほとんど寝る時間を確保できず、ひどい寝不足になってしまった。そこで、息子の睡眠障害に合わせて、私も添い寝をするようにしてみたり、消灯を徹底したりと環境を変化させてみた。ほんの少し眠りが長くなったものの、改善には至らなかった。私は焦点を変えて、息子ではなく私自身の睡眠リズムを調整することにした。深夜0時には必ず寝るようにした。そして、一度眠りについたら眠りに集中する。息子が目を覚ましている気配に気づいても反応しない。その間は申し訳ないが妻に一人で様子を見てもらう。妻が疲れてきた頃に息子が私のところに来るので、そこで交代する。これで、安定的に5〜6時間の睡眠をとれるようになった。
こうした障害児特有の対応はとても大変だし負担も大きい。一方で、この苦労をしていることについてストレスを感じながらも、まだ余裕があるように感じる自分もいる。そう感じるのは、過去のストレスから耐性を獲得しているのだと思う。中学生の頃、大学院時代、婚活をしていた時期などを思い出してみると、今よりもはるかに辛いことが多かった気がする。加害性の強い人たちとも関わらざるを得なかった。それに比べると、ごく限られた、善良な人たちと過ごしている今の日常は、ほとんど負担がない。ありがたいことだ。
「あの時の方が大変だったから今は我慢できる」と考えるのは、苦しさを取り除く行動ではない。本来であれば、苦しさの原因に向き合い、改善できることは改善し、支援を求められるところは求めるべきなのだろう。ただ、自分のストレスの器を推し量るには役に立つ。
苦しみの比較を続けたいわけではないが、今朝のニュースでも悲惨な事件が多く報道された。イスラエルとイランが双方ともに弾道ミサイルを使った攻撃をしているという。現代的な建物に流星のようなものが激突して爆発している動画は衝撃的だった。インドでは旅客機が墜落し、200人以上の死者がでているそうだ。こうした凄惨な事件を耳にすると、今私が感じているしんどさでは比較にならないほどの苦しみが世界に渦巻いているのだろうと想像する。自分の悩みの小ささを思い知らされる。
苦しみを天秤にかけるばかりではなく、喜びについても目を向けていきたい。それは息子の笑顔だったり、成長だったり、妻の手料理だったり、そうしたものだと思う。また、自分にあった仕事ができていること。趣味の時間を確保できていること。社会から支援されていることもそれにあたる。改めて、こうした喜びを自覚しよう。それは信仰のように私を支えてくれるに違いない。