取るに足らない楽園
友人S氏と待ち合わせをして、ちょっとした料亭に入った。春とはいえかなり日差しが強く、気温は20度を超えていた。私たちは喉の渇きを癒そうと卓上のポットに目を向けたが、残念ながら湯気の立ち上がる熱いお茶しかなかった。「ずるい商売だな」と思いながら、冷たいビールを頼んだ。久しぶりの再会に気分が高まっているところにアルコールが入って、取りとめのないことをたくさん話してしまった。特に私は、ポスト資本主義に感銘を受けたことについて滔々と語った。自分でも舌が回るなと少し呆れるくらいだった。
食後は私の家族と合流し、ゆったりと雑談して過ごした。友人は息子と少し遊ぶ時間を作ってくれた。息子は周りの人に興味を示したりアプローチしたりすることはほとんどないが、この時間は楽しく過ごせたようだった。穏やかに微笑み、優しい言葉をかけてくれた友人に感謝したい。息子には自閉症があり、言葉を使うことができない。だから両親に強く依存して生きているが、それ以外にも優しい人たちが社会には存在している。何も恐れることはないのだと、これから伝えていきたいと思った。
その後は観光案内のつもりで、大きな公園を歩こうと計画していた。しかし友人は予定より早く到着しており、もうあらかた歩いてしまったという。神社はどうかと尋ねると、それもすでに見たばかりだと答えた。そこで私は、一度も行ったことのない奇妙なスポットの探検に誘ってみることにした。私たちは大通りに出て、橋の上から田園風景を見下ろした。一面に広がる青い大麦畑の先に、小さな赤い鳥居が見える。私はそれを指さした。
作業服を着た男性がトラクターをゆっくりと走らせている。警戒心のないカラスが一羽、白鷺が三羽、その周りに集まっていた。友人は農道を歩きながら「ここは天国のようだ」と笑った。日差しは強かったが、涼やかな風がよく吹いていた。確かに楽園じみていると私も頷いた。のどかで、争いがなく、観光客など一人もいない。誰も気に留めないこの場所が、今日だけは確かに取るに足らない楽園だった。
鳥居に到着した。朱色はまだ鮮やかだ。裏側を見ると、平成29年と刻まれていた。それほど古いものではない。しかし木々に隠れた社の方は見るからに朽ちた年代物だった。私たちは小さな賽銭箱に十円玉を投げ入れ、二礼二拍手一礼を捧げた。特に願掛けをしていたわけではない。友人の所作を真似ただけだった。その他はほとんど見るべきものもなく、五分も滞在せずにその場を離れた。
かなり汗をかいたので、休憩のためにカフェを探した。Googleマップを頼りに訪ねた2軒はともにシャッターが下りていた。諦めかけて向かった3軒目でようやく席に着くことができた。一人のおじいさんがカウンターに座っている以外は空席だった。木製の大きな丸テーブルを見た友人は「ボードゲームができそうだ」と呟いた。アイスコーヒーとカフェラテを注文した後、私たちは雑談に夢中になった。私は「インドで牛が神格化されている理由」という最近仕入れた雑学を披露した。そんな他愛もない話を重ねていると、あっという間に時間が過ぎていった。
駅まで友人を見送った後、私も帰路についた。近頃はAIと対話をするのが面白くて、引きこもってばかりいる。AIは、人間では考えられないほど幅広い知識をもち、様々な知見を提供してくれるからだ。仕事の役に立つだけではなくて、考え方が広がるきっかけをどんどん与えてくれる。けれど今日、生身の友人と接して、信頼できる人間が笑い、言葉を返してくれる心地良さは、また何者にも変え難いものがあると実感した。こうして日記を書きながら、別れしなの言葉を思い出す。「またいつか会おう」このありふれた言葉に喜びを感じさせるのは、きっとAIには難しいだろう。