無題
謎めいた世界などはどこにもなく。静寂も喧騒もどこにもなく。一日が終わろうとしている。頭がくらくらしていた。気まぐれに一杯だけ飲んだビールが致命的に効いている。
風取りのために開けた窓から、かすかなざわめきが聞こえる。半端な月が出ていた。満月、半月、新月のいずれでもない。薄いカーテンが、かすかな光を、いっそう淡くしている。
まどろみ。
意識を失いかけたが、無理な姿勢になった痛みでかろうじて目を覚ます。ほとんど目をつむったまま、明かりを消した。それから着替えもせず布団に体を投げ出して、溶けるように眠りに落ちた。
夢を見る。
何かの失敗をする。
叱られて。
逆らって。
諦めた。
懐かしい。一番キライな人の背中を見ていた。
やがて、我に返った。
ずいぶん長く眠っていたらしい。太陽はすっかり昇っている。シャワーを浴びて、すばやく着替えを済ませる。朝のルーチンをこなすうちに、だんだん、頭が働いてきた。
携帯を右ポケットに入れて、左ポケットに財布を入れようとした。しかし、見つからない。いつも机の引出しに片付けているはずの財布が、そこになかった。慌てて洗濯カゴをひっくり返す。着替えたズボンのポケットを裏返しても、糸くずが落ちてきただけだった。
焦りが吹き出してくる。昨日、居酒屋で失くしたのだろうか。いや、それなら家に入れない。財布の中に鍵をしまい込んでいるからだ。では、家で失くしたと言うことになる。
郵便物を貯めていたケースをひっくり返したり、布団を叩いてみたり、クローゼットの洋服を片端から引っ張りだしてみたり、なりふり構わず探し回った。ゴミ箱の中さえ確認した。
それでも、馴染み深いあの財布が見つからない。ブランドでも何でもない、ただ黒い革の無個性な財布だ。それ自体にはほとんど価値はない。中に入っていた現金やカードだって、取り返しのつかないものではない。けれど。派手にため息をつく。苛立ちはすでにしぼんで、ただ落ち込んでいた。会社も大遅刻だ。いや、こんな悲しいことがあったのだから、もう、休んでしまおうか。
とにかく心を落ち着けて、何か飲み物でも飲もう。そう思って冷蔵庫を開けた。しかし、ドレッシングがぽつんと残っているだけだった。いつも買っている麦茶を切らしていたようだ。仕方がないので、蛇口をひねってぬるい水道水で喉を潤した。
不味い。
いや、その不快感よりも、気になることがあった。そうだ。昨日は帰り道で水のペットボトルを買った。その飲み残しがあるはずだ。昨晩、冷蔵庫を開けた記憶が蘇ってくる。そう、確かに、そのペットボトルを入れたはずだ。単なる勘違いだろうか。慌てて冷蔵庫を引っぱり開ける。目を凝らして確認した。それさえ信じられず、手でまさぐったりしてみた。しかし、確実にその個体は存在しなかった。あるべきものがなかった。すなわち。自分以外の誰かが持ち出したということだ。
家に、誰かがやってきて、水を持ち出し、財布を盗んだのかもしれない。その可能性に気付いた時、冷たい汗が吹き出してきた。自室に誰もいないことを確かめたあと、震える手で警察に電話した。財布と水以外になくなったものはない。そのことが不気味に思える。