トーマ
クリーム色の病室でトーマは目覚めた。喉の渇きを感じて、ペットボトルに手を伸ばす。その手は、無数の水疱と瘡蓋に覆われ赤く爛れていた。すぐさま命の危険はないにせよ、治癒は難しいと医師は言っていた。今は、病に侵されていく速さと、回復しようとする速さが釣り合っている。けれど、その天秤が傾いたなら、人としての形を保つことさえ難しいかもしれない。トーマはそっと自分の頰に触れてみた。不快な凹凸を感じる。鏡を見ないようにしていたが、おそらく膨らんだ蝦蟇のように醜悪な有様だろう。
いくつかの治療を試みたけれど、全くと言っていいほど効果は見られなかった。新しい治療法や薬品に希望を抱いても、それが報われることはない。トーマは、かすかな希望と落胆の繰り返しに飽きていた。もう、治らないだろう。誰もはっきりとは言わないが、病室にはそんな空気が充満していた。
入院費用は無料《ただ》ではないし、保険適用外の治療には莫大な治療費がかかっている。トーマは正確な治療費を知らなかったが、青ざめやつれていく両親の姿を見れば、無理をしていることは明らかだった。この悲惨な状況を止められるのは自分だけだ。トーマはそう考えた。
しかし、すぐさま行動を起こすわけにはいかなかった。カレンダーに、一つの赤い印がある。この日までは、死ねない。なぜなら、マリアに会う約束があるからだ。マリアとは家が隣同士で、なにかと付き合いが多かった。歳はトーマの同い年で、クラスが同じになることもあった。
マリアのことを振り返ると、花がぱっと咲くような笑顔が思い出される。弱った心臓がひときわ強く脈打った。無様を晒したくはない。今は、体力をつけなければ。トーマは酷い炎症に堪えながら、朝食を無理矢理に押し込んだ。
約束の日、時間ぴったりに、聞き逃しそうなほど微かなノックが聞こえた。不慣れな病室にかしこまって、そろそろと入ってきた女性は、確かにマリアだった。何年かぶりに見た彼女は髪を栗色に染めていて、少し大人びて見えた。トーマが呼びかけると彼女はたしかに、花咲くように微笑んだ。
この笑顔だ、と思った。ただそれだけの所作に「好きだ」とこぼれそうになった。慌ててその自己満足に蓋をする。死にかけの蝦蟇が彼女を幸せにできるはずはない。好きだからこそ、口を噤むべきだ。そうしてただ彼女の言葉に耳を傾ける。高校の頃の思い出話。よく遊んだ仲間たちのこと。大学のできごと。すっかり忘れ去っていた日常が、今もたしかに息づいている。だがそれは、果てしなく遠い出来事のように思われた。
あっという間に時間は過ぎて、夕食が運ばれてきた。それは、面会時間の終わりを表していた。マリアはまだ話し足りない様子だったが、しぶしぶ席を立った。トーマは彼女の背に向かって「グッドラック」と声をかけた。マリアはくすくす笑いながら部屋を出ていった。彼女の気配がすっかり消えた冷たい部屋で、トーマは深く息を吐いた。
夕食には手を付けず、両親に手紙を書いた。同様に、思いつく限りの人たちへ短いメッセージを書いた。マリアにはもう一度、グッドラックと書いた。
消灯時間が近づく。人通りはない。力も勇気もいらなかった。自分を支えるのをやめて、そっと病室の窓から出る。浮遊感をほんの少し味わう。笑おう。彼女に及ぶべくもないが、笑いながらゆこう。